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「静かなお正月だったわねぇ」
「おかげでこっちは、とんだメに逢ったよ‥‥」
夫が座卓に肘をついて、こめかみのあたりをぐりぐりやってる。
「だいじょうぶ?」あたしは大きな湯飲みに濃いお茶を淹れながらくすくす笑った。
「まさか呉先生が来てると思わなかったからなー」

時計の針は8時だいぶ回ったところ。夫の目元はまだちょっとだけ潤んでる。元日早々いきなり出かけてしまった義父のかわりに、お世話になってる協会のお年始に行って、飲めないお酒をムリして飲まされたのが原因。いつもだったらうまくかわしてくるのに、たまたますごく尊敬してる年輩の先生の隣に座るハメになったのが運の尽きだったのよねぇ。
でも午後3:00には帰ってきたのよ? なのにまだぶつぶつ言ってる。笑っちゃいけないと思いつつ、でも笑っちゃう。まあ、ある意味、アルコールだけがこの人の弱点かもしれないんだけど。

「はい」
「ありがと。ふー。美味しいや」
大きな湯飲みを手に、ちょっぴり照れたように笑う。この人と会って10年。結婚して6年。でも未だにこんな顔を見るとどきどきして、ついずっと見ちゃう。
「なに、茜? あ、もしかして、まだ、顔、赤い?」
「ううん。もうほとんどだいじょぶよ」

私の夫、赤星竜水、32歳。ぱっと見た目、むしろ女性的なぐらい優しげに見えるこの人は、なんと拳法の道場主をやってるの。義父の赤星虎嗣が作った赤竜拳の二代目当主。ちょうど就職した年。ここに護身術を習いに来始めたあたしは‥‥‥‥。

あたしに限って、一目惚れなんて絶対ないって思ってたのにな‥‥。人生って、意外だわ。

同居してる義父は、新年早々、親友の葉隠博士のところに出かけて、飲み過ぎたんであっちに泊るって連絡があった。例年、博士がこっちにいらっしゃるんだけど、今年はどうしてもだめで、そしたらお義父さん「あきちゃんが来れんなら、ワシが行こう!!」って行っちゃったのよね。

息子の竜樹は凧揚げで駆け回りすぎてもうダウン。お正月の空気の中で、二人っきりっていうのが、なんだかすごく新鮮な感じだわ。なんて思ってたら、外で、ばう、ばう、と犬が吠えた。あら、と耳を澄ますと、今度は爪が地面を蹴っていったりきたりする音にまじって、くんくんという甘えた声。ばさばさ尻尾振ってる音まで聞こえる気がするわ。

「来たね」
「そうね」
人の家に来て、先に犬舎のとこ行っちゃう人なんて、竜樹の友達以外じゃ、一人しかいない。でもって、待てど暮らせど上がって来ない人も‥‥。時計の秒針がくるりくるりと何度か回る。
「しょうがないね、あいつは‥‥」
夫が苦笑して立ち上がり、作務衣姿で裸足のまま、からんと下駄をつっかけて玄関のドアを開ける。あたしもその後ろから外に出た。

「ほら‥‥ばれちまったじゃねーか」
軒灯に浮かび上がった鮮やかな赤いジャンパーの男性が小さな声で犬に文句を言う。二匹の大きな秋田犬にまとわりつかれながら、頭の上に大きな唐草模様の風呂敷包みを避難させて片手で押さえてるのを見て、夫がとても可笑しそうに言ったの。
「竜太‥‥‥。風呂敷の模様が、いかにも、だよ‥‥?」

ずっこけそうになった"泥棒さん"は、慌てて両手で風呂敷包みを胸の前に抱え直したと思ったら、それに顔を埋め、くっくっと笑い出した。
「さあ、もう、入ったらどうだい?」
「うん。じゃ、倶々羅(くぐら)、指倶羅(しぐら)、またな」
彼は、まだ遊んで欲しそうな二匹の犬に手を振って夫の後からついてきた。

泥棒さんの正体は赤星竜太くん。夫の5歳下の弟。彼はずっと葉隠博士のところで仕事をしてる。人間じゃない侵略者から世の中を護るっていうのを、"仕事"と言っていいかどうかはよくわからないけれど。何があるか予想できないからと、元日もOZの基地に詰めていたのだけど、寝ちゃったお義父さんのために、着替えだけ取りに来たところ。お義父さんってば、羽織袴で行っちゃうんだもの。竜くんも、困るわよねぇ。


「兄貴、義姉さん。今年もよろしく」
彼は玄関に入ると、真っ黒なくせっ毛の頭をぺこりと下げた。
「こちらこそ。少しぐらい上がっていけるんだろう?」
「うん。あんま長居はできないけど‥‥。あ、義姉さん。これ、ほんとにありがとう。
 おかげで、いかにも正月ができて、俺、すごく嬉しかった」
「どういたしまして。喜んでもらえてよかったわ」

唐草模様の中身は盗品じゃなくてお義父さんが持っていたお正月料理の重箱。竜くんの仲間に、せめてお料理ぐらいはお正月気分を‥‥と思って、昨年末、腕によりをかけて作ったの。竜水さんにも思いっきり手伝ってもらって‥‥。台所仕事のできるダンナって本当にありがたいのよね。友達にはすっごく羨ましがられてるわ。

竜くんは上がって靴をそろえると、ちょっと困ったような顔で夫を見た。
「それで‥‥兄貴‥‥これ‥‥」
ジャンパーの懐から出てきたのは幾重にも折り畳んだ白絹。中には位牌と小さな遺影。
「親父が持って来てて‥‥。どうしようかと思ったんだけど‥‥」

位牌はお義母さまのもの。私はお会いしたことはないの。お義母さまは夫が9歳、義弟が4歳の時に亡くなっているから‥‥。竜水さんはふわっと笑った。
「やっぱり。親父様がわざわざ出かけたのは、このセイだったんだね」
「え? 何が?」
「いや‥‥」夫は義弟から遺影だけを受け取って言ったわ。
「位牌は、竜太、お前が返しておあげ」

竜くんは神妙な顔つきで頷くと、白絹を懐に戻した。いつものように洗面所で手を洗い口を漱ぐ。和室に入って仏壇の前にきちんと正座すると、位牌を出してそっと置いた。2本の線香を折って火を付け、香炉の中に横たえる。りんを長めに1回、続けて2回鳴らし、両手を合わせて目を閉じた。

小さい頃から父や兄に躾られたままの、ごく自然な所作。これを見るたびに、竜水さんが昔つぶやいた言葉が蘇ってしまう。
(竜太が仏壇や墓に参るのはね、ある意味、父や私のためにしているのであって、母のためでも
 自分のためでもないんだよ。それが不憫に思えるし、時には羨ましく思うこともあった)

覚えているから喪ってしまった悲しみもまた大きい。
だから覚えてない方がいいのかと言ったらそうとも言えない‥‥。

幼くして母を亡くしたこの義弟がなんの翳りも持たずに大人になったのは、お義父さんと竜水さんが本当にうまく守ってあげたからだと思うの。この人が、母親がどういうものかを知るのは、自分が父親になった時なのかもしれないわね。

義弟は両の拳をついて座布団から降りると畳の上でくるりとこっちに向き直った。
「忘れるとこだったよ、これ」
ポケットから小さなのし袋を出してすっとあたしに滑らせる。
「あら、竜樹に? 早いわよ」
「でも、最近ぜんぜん遊んでやれねえし。なんか買ってやってよ」
「じゃ、ありがたく。今、新しいお茶、淹れるわね」

夫と竜くんが向かい合わせで、あたしは夫の隣にちょっとだけ離れて座る。二人の顔がよく見えるように。こうやって見比べてもあまり似てない兄弟。竜くんはお義父さんをもうちょっとだけ優しげにした感じ。竜水さんは完全にお義母さま似。
一緒に居ると何かと言い合ってるお義父さんと義弟が、華奢な感のある竜水さんの言うことを、しごく素直に聞いてるシーンは、かなり見物よ。たぶん夫には猛獣使いの才能があるんだと思うわ。

「どうなんだい、最近は?」
「攻めてくる分はなんとか防げてる。警察との連携もいい感じになってるし、なにより俺達5人、
 うまくやれてっと思うから‥‥。俺、ほんとにあいつらにはすごく感謝してるよ。
 だけど‥‥スパイダルの連中がいったい何者で、どんなとこから来たのかとか、
 そういうのはぜんぜんわかんねーし‥‥‥。その意味では先が見えねえ感じだな‥‥」
「お前は大丈夫なのかい?」
「うん‥‥。まあ、きつくねえって言ったらウソになんのかなぁ‥‥。卒業してからこっち、
 降ってくること、こなすだけで精一杯で、あんま考える余裕ないっていうか‥‥」

「もともと竜くん、もの考える方じゃないもんね」
「‥‥どーせ、そーですよっ‥‥でも、これでも一応は考えて、ちゃんと‥‥‥‥」
ぶうっとふくれた義弟が、言い訳めいたことをぼそぼそつぶやく。あたしは笑い転げ、竜水さんは突っ伏したわ。この子は、とても頼もしい感じと妙に子供っぽいところが同居してて、それがくるくるとなんの衒いもなく表に出てくるから、つい面白くてからかっちゃうのよねー。

「しかし、まあ‥‥」夫が目尻をちょっと拭いながらフォローしたの。
「苦労してるだけあって、お前もそれなりに落ち着いてきたというか、貫禄がついてきたよ」
あたしはワザとまあるい目をしてうんうんと頷いてみせる。義弟はあたしに向かって、イーッと歯並びのいい白い歯を剥き出した。いえいえ。ちゃんと本気で賛同してあげたのにね、竜くん? それでも夫に褒められたのが本当に嬉しかったようで、彼は照れたようにぽりぽりと頭を掻いていたわ。

竜水さんが頬杖をついて少し伏し目で独り言のように言う。
「若い時は、なんでこんなこと‥‥って、文句を言ってみたり、ナマイキに非難してみたり‥‥。
 でもその立場になって初めてわかることは色々あるね」
「だね‥‥。そんなことばっか‥‥。でも、意外だったなー! 兄貴もそうだったんだ!」
「私だって、スーパーマンじゃないよ。親父様からここを継いだ時は本当に色々あったさ」
「ふーん‥‥」
義弟はちょっと目を見開いて、夫を見ていた。気持ちはわからないでもないわね。竜くんにとって、竜水さんはあまりに偉大なお兄さんだから。
「そうねぇ。苦手なお酒も飲まされるし、大変よね」
混ぜっ返したあたしに、こんど突っ伏したのは竜くんのほう。夫の人差し指がつーんとあたしの額をついた。

夫の年始の話になってひとしきり笑ったあと、大きな手でごしごしと目をこすった義弟はちょっとだけマジメな顔になってこう聞いた。
「あのさ‥‥兄貴も‥‥聞いたこと、ないよね?」
「ん?」
「‥‥洵が、博士を、お父さんって呼ぶとこ‥‥」
「ないね‥‥。残念だけど。でも、あの二人がお互いをとても大切に思っているのは
 確かなんだし。時の流れに任せるというか、なるようにしかならないと思うよ」
「‥‥そっか‥‥。やっぱ、まずかったかな‥‥‥‥」
「何が?」
「うん‥‥。たった今、あいつのこと病院に送ってきたとこなんだけど、つい聞いちまったんだ。
 家でも博士って呼んでるのかって‥‥。たぶんそうだろうとは思ってたんだけど、
 気になっててさ。博士だって、可哀想だし‥‥」
「洵君はなんて?」
「怖いって。お袋さんのこととか思い出して、戻りたくないって言ってた。
 俺、博士もみんなも、お前のこと大好きだから、壊れねえって言ったんだけど‥‥。
 兄貴の言うように時間任せってのがよかったのかな」

夫は、優しくて、でもちょっとだけ悪戯っぽい輝きの混じったいつもの微笑を浮かべたの。
「時の流れ‥‥というと、自分が自然に変わっていくのを待つ感じが強いけれどね‥‥。
 でも、自分の周囲で何が起って、他人がどういう言動をとるかって要素もあるわけだ」
「うん」
「つまり、十年間、遠慮して誰も言えなかったことを、いきなり言い出すお節介が現れるのも、
 十分に"時の流れに任せた"ことになるんじゃないのかい?」
「‥‥‥‥‥それって、なんか、俺、ただのバカみたいじゃん‥‥」

夫は義弟のへの字に曲がった口元を見て、くすりと笑った。
「でも‥‥お前も、ずっと気になっていたことを、今日になって初めて言った。
 何か洵君の"流れ"みたいなものが、変わろうとしてるのかもしれないね‥‥。
 そんな時は、まったく別のタイミングで、同じ事を言われたり‥‥不思議なことが起るのさ」
「ふーん。そんなもんかな‥‥。でも、なんか‥‥今日の兄貴、いつもと違うね」
「そうかい?」
「道は自分の力で切り開くんだから、運命がどうとか言わないことだって、
 苦しい時の神頼みなんてだめだって、いっつも‥‥‥‥。あ、まさか、まだ酔ってんの?」

夫はちょっと頬を赤らめて、竜くんそっくりの仕草でぽりぽりと頭を掻いたの。
「流石にそれはないよ。ま、私も、だんだんに変わっていくのさ。
 ‥‥あ、茜、忘れないうちに親父様の着替え出しておいてね」
「はい。もう包んであるから、すぐ持ってくるわね」
「ああ、俺もそろそろ帰らなきゃまずいわ」

竜くんが、あたしの後から部屋を出かけて、ふっと止まった。立ち上がりかけた夫を見つめる。
「‥‥兄貴‥‥ほんとに今までありがとな」
「なんだい、気持ち悪いね」
「お袋いなくても、俺がこんなに幸せに育ってこれたのって、全部兄貴のおかげなんだよな。
 洵や、黄龍見てると、俺、ほんとに恵まれてたんだなって思う」

竜水さんは一瞬驚いたように目を見開いて、そのあと嬉しそうに微笑んだ。
「ま、一番えらかったのは、親父様だけどね」
「それは‥‥ちょっと、全面的には賛同できねえ気が‥‥‥‥」

夫は苦笑して立ち上がると、また茶目っ気たっぷりの眼差しで竜くんを見た。
「お前は本当に自分が幸せだと思ってる?」
「ああ。そう思ってるよ」
「そう言い切れるのも、ひとつの強さかもしれないね」
「なんでさ?」

「自分の言動に対して、過去の不幸のセイにできないからね。ぜんぶ自分の責任だ」
「あーもー! またそーやってプレッシャーかけるんだからっ」
「ははは‥‥! がんばれ、隊長さん!」
「黒羽みたいなこと、言うなよーっ」
「はいはい。じゃあ、私はちょっと調べものがあるからこれで‥‥。
 あの、茜‥‥あれ、渡しておいてくれるかな」
「わかったわ」
ぽんと義弟の肩を叩いた夫は背中で手をふって、書斎に行ってしまったの。
めずらしー。竜水さんが照れてる。あんまり無いことだわね。


着替えの風呂敷包みを上り框に置く。スニーカーを履いた竜くんが、こんな時間にどうもと挨拶した。
「竜くん、これ」あたしは義弟に、一つの御守袋を差し出した。
「え? まさか‥‥さっき兄貴の言ってたのって、これ?」
「意外?」
「うん‥‥。だって、兄貴、神社とか行っても、あんまり願ったりとかしないじゃん?
 誓うってのはあるかもしんねえけど‥‥」

「知ってるわ。だけどね、今日、あの人、ちゃんと祈ったのよ。竜くん、あなたのために」
「俺の‥‥?」
「あなたや、あなたの仲間が無事でありますようにって。竜太のことは信じてるけど、
 何が起るかわからないし、自分はもう何の力にもなってやれないから、祈らずにいられないって。
 母が入院してた頃と、あとは竜樹のお産の時以来だなって、笑ってたわ」


竜くんは、両手で濃紫のお守り袋を受け取った。

まるで合掌するように、それを両手に挟み包む。

目を閉じて両の親指を胸に押し当てると、大きく一度だけ、息を吸って、吐いた。


と、ぱちりと快活な瞳があたしを見つめた。
「義姉さん。兄貴に、ほんとにありがとうって言っといて。俺、がんばるからって」
「気をつけてね。残念。火打ち石でも用意しとくんだったわ!」
「時代劇じゃねーって! じゃ、おやすみ!」

義弟と一緒に外に出る。大きな手で、ちぎれんばかりに尻尾を降り始めた二匹の秋田犬の頭をがしがしと撫でた。名残惜しそうな倶々羅と指倶羅に手を振って車に乗り込む。あたしはそのテールランプに手を振ってから、外門を閉めた。

ばかね。二人とも。
神様に頼るとか、そんなこと考えなくても、祈りには大きな力があるのに。

誰かが自分のために祈ってる。
それだけで、大きな力が湧いてくるのに。

見上げれば、しんしんと澄み切った夜空に、欠け始めた月が冴えてる。

あたしも祈るわ。強くて優しい二人の兄弟のために。

あなたたちが、いつまでも、今のままいられるように。

心からの祈りを‥‥。


===***=== (The END) ===***===
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