★第28話 (17/18)
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「いつもご足労ありがとうございます。私がもう少し身軽でしたら、あるいはね…おや、今日は唐さんもご一緒ですか」
星亮の後から階段を降りてきた志飛に目を向け、その志飛曰く『白蛇社長』は細い目をますます細くし、口の両端を持ち上げて三日月形のあかい口腔を覗かせた。
「太謝謝イ尓了(いつもありがとうございます)」
「すいません、唐は日本語は…」
「構いませんよ。バイリンガルの楊さんがいらっしゃいますからね」
バイリンガルってほどの事でも…と早くも疲れを見せ始めた顔を伏せた。
「あの、早速なんですがこれは今回の…」
と、ジュラルミンケースを持ち上げてみせた星亮の言葉を、ノブを回す以外の手段で開け放たれたドアの音が遮った。
「おらぁ小竹興業!汚え商売も切り上げてもらおうか」
ずかずかと入り込んできた白いスーツの男は、瞬間、この辺りを仕切る暴力団の鉄砲玉か何かかと思わせた。が、その顔つきは、星亮の経験から言えば、警察官だった。
「そこの二人もだ!動くな!」
志飛とそう変らないと見える体躯の男が降りてきて言い放つ。続いて現れた、これはまた前の三人に吊り合わないいかにも上等そうなスーツに身を包んだ若い男。
「三人を対スパイダル法により逮捕します」
星亮の経験もばかには出来なかった。その言葉を皮切りに、四人の刑事は一斉に銃を構えた。銃口は全て李に向いている。
「楊さん…つけられましたね」
前後左右に銃口を控え、しかし李は落ち着き払って言う。
「…すいませ…」
「まあいいでしょう。ここでの商売も長く続けるつもりは」
ありませんでしたから、と言ったのだろうか。そこから先は、おそらく声帯がすっかり変わってしまったのだろう。人間の言葉にはならなかった。
しゅしゅしゅ、しゅしゅしゅしゅ
と言う、どこかで聞いた音を喉元で掻き鳴らしながら、天井近くまで鎌首を擡げる白い蛇がいた。
「我的天!是我説了的那樣(なんてこった、俺の言ったとおりだ!)」
「那樣的事無論如何好、逃距!(そんな事知るか!逃げるぞ!)」
刑事たちが蛇に気を取られている隙に星亮は目ざとくジュラルミンケースを引っつかみ、連れ立って這う這うの体でバーを飛び出した。
階段を上りきりビルの外に出ると、外も地下と似たような騒ぎ。どこから出てきたのか、警官たちが夕闇の中で人々の避難を急がせていた。
「成為了嚴重的事態(とんでもねえ事になっちまったなあ)」
ケースを抱えたまま、戦渦の街の前に立ち尽くす。この原因に自分がいると言う事が、ケースの冷たさに化けて指先から浸蝕してきていた
「無論如何好、與這個騷動一起逃距。如果遲到了警官們來。(どうでもいいさ、この騒ぎに乗じてトンズラだ。ぐずぐずしてちゃさっきの警官どもが来るぜ)」
志飛は人の少ない路地を指差し走り出そうとするが、相棒は突っ立ったまま動く気配がなかった。
「早I(おい!)」
駆け戻って肩を掴むが、肩がこちらを向いても視線は前方に貼りついたまま。その先を追って見ると、騒乱の中に女が立っていた。美人だった。
女も星亮を見つめていた。化粧気は薄いが形の良い桃色の唇から零れた異国の単語を、しかし、志飛はその意味を推し量ることが出来た。
女のすぐ後ろで、自分たちと同年輩だろうか。地味なスーツの男が受令器に向かって何事か怒鳴るのを見て、我に帰った。
「…逃距、志飛(…逃げるぞ志飛)」
「因此那樣説著(だからそう言ってんだろ)」
女を振り払うように踵を返し、これだけは磨き抜かれた逃げの一手。女の、先ほど聞いたものと同じ単語が鋭く飛んできたが、二人は逃げた。化け物から、警察から、女から―――何から逃げているのか、もうよく分からなかった。
気づけばいつもこうだった。なにものかからの逃げの道行の、終わりはどこにあるか、もうだいぶ前からはっきりと知ってはいたのだ。それでも二人連れなら天井知らずに気も晴れたし、十人も連れ立って行けば最後の穴倉にも笑って入れる。それは人が最後の縁にと抱くには小さすぎる、しかし彼らには過ぎた希望だった。
「稍等、稍等(おい、おいちょっと待ってくれ)」
気づけば少し後ろに下がっていた志飛が呼び止める。両膝に手をついて肩で息をしていたが、やがて、がたつく膝に拳を打ちつけ始めた。
「沒問題或者 能走ロ馬…(大丈夫か歩けるか…)」
「イ到木眉…即使説的那樣!(くそ…言う事聞け、この!)」
「不可打、隱藏在門中(あんまり殴るなよ。そのドアん中に隠れよう)」
路地に面した裏口らしいドアを開けると、おそらく居酒屋か何かだろう。既に無人のそこから、外の表通りが見える。人の濁流があった。
「成為了真的嚴重的事…(ほんとにえらい事になっちゃったな…)」
「沒有什麼食物ロ馬。這裡是廚房巴?(何か食うもんないかな。ここ厨房だろ?)」
「不是那樣的情況、是貪食的東西(おい、それどころじゃないぜ、意地汚い奴だ)」
膝の具合が悪くなったと言うのは方便かと思うほど、いやにてきぱきと板場を漁る相棒に、しばらく表情を忘れた口に笑みが戻った。
「有種種的食物、日本菜看起來也好吃(けっこういろいろあるぞ。日本料理も美味そうだな)」
「膝沒有問題ロ馬?二階休息(膝どうしたんだよ。ちょっと二階上がって休もうぜ)」
志飛はちゃっかり盆まで調達し、冷めてはいるだろうが盆の上狭しとたくさんの皿を並べ、手には小瓶まで持っていた。
二階は小奇麗な畳の部屋になっていて、座卓と畳んだ布団以外は何もない。酔いつぶれた客でも泊めるのに使うのだろう。
「一邊進餐一邊可以休息膝。警官在那裡?(さあ、腹拵えしながら膝のご機嫌でも伺いましょうか。おい警官はどうした?)」
「與蛇作戰著。如果暫且休息了去…真的變成那樣的少鬧沒認為(まだ蛇の相手してんだろ。しばらく休んだらずらかろうぜ…しかし本当にあんな騒ぎになるとはな)」
「日本可怕(日本は怖えな)」
瓶を開け、これもまたいつのまにか調達してきていたコップに注ぐ。
「是那個那樣(全くだ)」
お前がこんな仕事、とか、お前の膝がとか。言うのは簡単だったし、聞くのも苦にならなかった。何もかも二人で仕出かしてしまった事だ。
けれど、これは、と星亮は思う。
「対不起、妹妹的事(すまんな、妹なんか)」
「没事儿!…可是(いいよ!別に…しかし)」
コップをひとなめし、冷めた料理をつつきながら膝を撫でる。
「是美人。想寒暄。(美人だったな。挨拶したかった)」
と、地鳴りがした。
金属音ともエンジン音ともつかない重低音と、紙と紙を摺り合わせるような。
咄嗟に窓の外に首を出すと、キャビネットを繋ぎ合わせて作ったような、しかし途方もなく巨大な人形と、高層ビルにとりついてとぐろを巻かんばかりの白い大蛇が、都会の遠景に浮かび上がっていた。
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