★第7話 (7/18)
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黄龍の右肩に少しひねりが入った時、その拳がどういうラインで入ってくるか、赤星は正確に描くことが出来た。だが、彼が準備したのは歯を噛み合わせたことと、倒れないように膝をかすかにゆるめたことだけだった。

相手を焼こうとする前に、自らを焼灼してしまう焔(ほむら)だ‥‥
こんな怒りを見ると、いつもどうしたらいいか、わからなくなる‥‥。

その事実がひどく哀しくて、それは十分に殴られる理由になるように思えた。

教えた通りに短めの軌跡を描いて右拳が左頬に入ってきた。リーチの長さを最も効果的に生かす正拳。赤星は右後方に一歩踏み出して上半身を支えた。口の中にツンと血の味が広がった。

黄龍が飛び出していったあとの、乱暴に閉じられたドアのベルが長く余韻を響かせる。

「‥‥輝、わりぃ。氷、用意しといて」
泣きそうな瑠衣と輝の顔を見て、悪いことをしたなと思った。

洗面所に入り、口を漱いだ。水が薄く赤色に染まって排水溝に流れていく。

(あんたを信じかけた俺がバカだったんだ‥‥)

黄龍の抉るようなつぶやきが頭にこびりつく。
冷たい水を両手にすくい、じゃぶじゃぶと顔を洗った。

戻ると、輝が、氷を大きなあめ玉ぐらいに砕いては、次々にアイスペールに放り込んでいた。
「おいおい、輝、そんなに、いらないよ」
赤星は思わず微笑んで、そのかけらを二つ口の中に放り込んで、左頬をふくらませた。
「あ、そだね。つい‥‥! だ、だいじょうぶなの、リーダー?」
「俺があのくらいでなんともないの、お前が一番よく知ってんだろ。ほら、瑠衣も、泣くなって」
氷を含んだまま、もごもごした声で言った。

「だって‥‥。どうしたの? 瑛那さん、なんであんな‥‥」
濡らしたタオルを差し出す瑠衣の頬を、ぽろぽろと涙が転がり落ちる。
「いや、ちょっと下でケンカしただけ。もう、大丈夫だからさ」
タオルを受け取って左頬に当てながら、右手を伸ばして瑠衣の頭を撫でる。

「違う‥‥。そんな、その場のケンカじゃないんでしょ?」
瑠衣はすがるように赤星のジャンパーの腕のあたりを掴んだ。
「赤星さん、怒ってる? 瑛那さんのこと、怒ってる?」
「怒ってねえって」
「ほんとに怒ってない?」
「ああ」
「ほんとうに? ほんとうに怒ってない?」

赤星は瑠衣の顔をまじまじと見た。少女の瞳は大きく見開かれ、涙があとからあとから溢れてくる。何か必死で訴えてくるようなその眼差しに、呑み込まれそうな気がした。

瑠衣は黄龍を理解してる。自分と違って‥‥。なんとなくそう感じた。
少女が戦いたいと言った時、黄龍が最初にそれに味方したことを思い出した。

制服のままの瑠衣の肩を抱き寄せる。謝罪の言葉がこみ上げたが、あえてもう一度繰り返した。
「黄龍のこと、怒ってなんかねえよ‥‥」
その身体をそっと押しやり、もう一度、瑠衣と輝に笑いかけた。
「二人とも、もう、心配するな。いいな」


赤星はグラスを一つ取ってもらうと、そこに氷をじゃらりと放り込み、店の外に出た。黒羽が静かについてくる。一足先に外階段を降りると、下から黒羽の顔を見上げた。
「黒羽、教えてくれ。俺は黄龍の何を裏切った? 情けねえけど、俺にはどうしてもわからねえ。ただ、浅見さんに謝ったことに関しては、間違ってなかったと思ってるんだ‥‥」

赤星の真剣な眼差しに黒羽が珍しく優しい調子で答えた。
「お前さんは何も悪くないさ。ただ瑛ちゃんが独り相撲、取ってるだけだ」
「独り相撲‥‥?」

「アイツが組織がどう、権威がどうのと必要以上に喚くのは、そういうものに向き合うことから逃避している自分に気づいてるからなのさ」
「逃避つったって、お袋さんとむりやり別れさせられたんだから、仕方ないんだろ?」
「ガキのころはな。だがアイツだってもうそろそろ、わかってるはずなのさ。あのとき黄龍財閥が崩れたら、日本の経済社会にどれだけの影響が出たか‥‥。そのために親父さんが、どれだけの思いを抱えて戻ったか‥‥」

黒羽は赤星の隣に並ぶと、階段の手すりに肘をついてよりかかった。
「婆様の理不尽な要求に唯々諾々と従った親父が許せねえ反面、若くして黄龍の危機を乗り切り、あのどでかい存在の手綱をうまくとってる親父を尊敬もしてる。婆様が象徴する憎むべき権威。それに屈したようでいながら、重責を背負ってやるべきことやってる親父‥‥。そういったいろんなことを整理できないまま逃げ回ってる自分を、瑛ちゃんはちゃんと自覚してる。アイツが最初から何かとつっかかったのも、お前の中に親父さん見てたからかもしれないな」

赤星は、黒羽の話を聞きながら無意識に氷をぼりぼりと噛み砕いていた。
「なんか‥‥わかったような、わからねえような‥‥‥‥」
黒羽がくすくす笑いながら、いつものからかうような口調になった。
「単細胞のお前さんには、難し過ぎる話でしたかね?」
「どうせ俺は単細胞だよ」残った氷をグラスの中でくるくる回しながら赤星はむくれた。

「そういいなさんな。旦那だってちゃんと成長してるって、さっきの見てよくわかりましたよ。昔のお前さんだったらとっくに、ぶち切れてたとこだ」
「はは‥‥。まったくだ。でも、人間なんて一人じゃなんもできねえって、わかってきたからな」
赤星が小さくなった氷と水をざっと口に流し込んでグラスを手すりに置いた。一歩踏み出して、くるりと身体の向きを変え、まっすぐに黒羽を見つめた。

「俺には、やっぱ‥‥黄龍の抱えてる"苦しみ"みたいなもんがホントのとこでわからねえ‥‥。でも‥‥初めて会ったあの日、あいつはとにかく弱い人達のために怒ってた。自分がやられちまうってわかってたのに、それでもあの人達をほっておけなかったんだ。それがわかった時、俺は決心できた。イエロースーツはこいつに任せようって」
「それで‥‥?」
「あいつが俺を信じらんねーって言っても、俺は黄龍を信じる。それで何か起こっても、それは俺の責任だ」

黒羽はくいと顎をしゃくって微笑むと、気持ち下目使いに赤星を見た。
「おせっかいな旦那にしては悪くない結論だ」
ふわりと笑った赤星が大きく伸びをして、少し腫れた左頬を撫でた。
「しっかし、黄龍の独り相撲ってんなら、殴られるんじゃなかったな」
「おや、そのくらいじゃ、隊長さんは、なんともないんじゃなかったんですかい?」

「でもさ、これ、しばらく醤油とかしみるぜ?」
黒羽は思わず吹き出した。
「不肖の後輩が世話になったお詫びに何かうまいものでも奢りますよ」
「ほんとか?」
「寿司なんて、いかがです?」

赤星が、思いっきりのふくれっ面を黒羽に向けた。

===***===

「わっ‥‥」
「あ‥‥! ごめんっ だいじょうぶかよ?」
ポケットに手を入れうつむいて早足で歩いていた長身に、公園から飛び出してきた子供が思い切りぶつかって転んだ。黄龍は慌てて膝をつき、少年を助け起こした。

「‥‥ってー! もう、おまえっ、気をつけろよっ」
「わりー。ちょっと考え事してたからさー。でーも、お前もいきなり飛び出すとあぶねーぜ?」
「かーちゃんと約束した時間に間に合わねーよっ オトナの方が気を付けろよなっ」
子供特有の口の悪さでそう叫ぶと、少年は走り去った。黄龍は苦笑してその後ろ姿を見送る。何とはなしに、彼が駆け下りてきた石段を登った。

薄暮の中で二人の子どもがサッカーボールを蹴り合っていた。小学1年生ぐらいか。ずいぶん寒くなってきたというのに二人とも半ズボン。少し勢いのあるボールだったら押されてしまいそうな細い脚なのに、それでもなかなか巧みなボールさばきだ。

そのうち背の高い方の子が、放り出してあったランドセルを持ち上げて背負った。ボールを抱えてもう一人の子に手を振り、黄龍の脇を走り抜ける。ボールはその子のものだったらしい。残った少年は、今度は三角や丸の穴のあいた小さな壁に石をぶつけはじめた。穴を抜くつもりらしいが、なかなかうまくはいかない。とはいえ、反対側を誰かが通ったら危ないことになるだろう。

黄龍はそれとなく子どもに近づいた。
「よ、坊主。石はやめときなって。向こう側に人がいたらケガするぜ?」
子どもはまん丸い眼で黄龍を見た。少し後ずさりして黙っている。まあ、見知らぬオトナには気をつけろというところだろう。それでも逃げていこうとはしなかった。さきほどボールで遊んでいた時、その子供のポケットからストラップ付きのカギが飛び出したのに、黄龍は気付いていた。

空っぽの家に、帰りたくねーんだな、こいつ‥‥。

黄龍は足元に転がっていた空き缶を拾った。何度か手の中でもてあそぶように放り上げると、いきなりをそれを横投げでしゅっと投げる。長い腕が優美なほどにしなうと、穴あき壁のずっと後ろ、15mは離れた位置にあるゴミ箱に、小振りのコーヒーの空き缶が見事に入った。

「すっげーっ!! お兄ちゃん、もしかして、野球の選手!?」
「ちょっと違うけどなー。でもオマエのサッカーもなかなかうまかったじゃん? つい見とれちゃったぜ〜?」
「ホント? ボクさ、来年になったらサッカークラブに入れるんだ! おかあさんが、来年になったらヨユウができるって言ってたから!」
「へー。サイコーじゃん。それより、お前、家、どこさ? もう少しで、暗くなっちまうぜ」
「平気だよ。すぐ近くなんだ、ボクの家‥‥。それにおかあさん、帰り、遅いし‥‥」

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