★ノアの切り札 (1/12)
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静かだ。
ただ一面に雪と氷が広がる。
完全に枯れ朽ちた木々の名残が、あちこちに突き出ていた。
目覚めを待つものも、芽吹きを待つものも、誰も、いない。
命が抜け落ちたような、この、静けさ。
それでもこの一帯には、辛うじて光と呼べる薄日が到達する。
白一面の世界で仄かな光を反射させる氷の粒達。
そんな景観を"それ"は見るともなく見ていた。大きな木の残骸によりかかるように座り込んで。
"それ"の内には、未だ鋭い牙がある。衝動のままに動こうが、動かずに耐えようが、"それ"自身を抉り苛む牙。
もがき回って越えてきたのは、空間か。それとも、時間か‥‥。
ただただ白い世界の中でグリーンと黒の艶やかなボディが鮮やかに映える。それを目にする者が誰も居ないのが、惜しいほどに。
その無人の静けさこそが"それ"を鎮める。己以外の生命が感じられないこの場所に、"それ"は安らぎを思い出し始めていた。
何年かぶりに、"それ"はゆっくりと腕の位置を変えた。首の向きも少し。ゆらりと触角が揺れた。そのまま再び動かなくなる。"それ"に訪れた静かなまどろみの時間は続いていた‥‥。
――Act.1 白き終幕――
どんよりと厚い雲の下、ひたすらに薄鈍色の氷が広がっていた。その中を布製のオーバーコートを着込んだ男が歩いてゆく。いくら夏とはいえ、気温は−25℃。蓄熱型か発熱型の耐寒スーツを装備するのが常識だ。だが彼は寒そうなそぶりも見せず、片手に黒いケースを持って、氷上に点々とスパイクの跡を残していた。
西暦2350年8月。TOKYO。
こんな風景が当たり前になって、もう20年以上が経とうとしている。
男はマシンまでたどり着くとリーブトロン・エンジンのスイッチを入れた。驚いたことにエアカーでなく、旧型のスノーモービルだ。近くの枝からつららを折り取ると、細い先端をぱりんと囓る。この厳寒の中、口中で溶けた冷たい水を飲み下した。エンジンの回転数が上がったことを確認してモービルにまたがると、ほとんど氷板に近い雪原を鮮やかに走り抜けて行った。
ちょうど40年前のことだ。ある巨大彗星が地球に接近した。それは完全に地球に衝突する軌道を描いていた。様々な測定とシミュレーションの結果、衝突範囲は80%の確率で地中海付近。ヨーロッパから中東、アフリカ北部が壊滅すると予測された。たとえ運良く大洋のど真ん中に飛び込んだとしても津波、地震の被害は甚大。なによりこの質量では99.99999%の確率で地球の軌道が変ってしまう。
彗星を調査した結果、生命が存在しないことが判明し、国連は彗星の爆破を決定。地球平和連合TPCを中心に各国の技術と力を結集して、彗星の半分以上を爆破し、軌道を逸らすことに成功した。
だが、事件はそれで終わらなかった。彗星を構成していた未知の物質が厚いガスとなって地球を覆い、太陽の光と熱の5割を遮断した。終末論をとなえる人々は彗星をオメガと呼んだが、それが人々に浸透したのもこの頃だ。科学界は認めなかったが、マスコミ含め多くの人たちがその未知のガスを構成する物質をオメガ粒子と呼んだ。
それは太陽の光と熱を吸収し分裂して増殖していく不思議な物質だった。高熱によって「燃やす」と無害な元素に還元するが、その過程で放射能を発する。打開策の見つからぬまま、オメガ層はどんどん成長し、地球は再び氷河期を迎えたのだった。
モービルを駆る男はそのまま街に入っていった。建物の4階近くまでを氷が覆いつくしている。ここに居る人間もほんの僅かになった。男は唯一明かりの灯っているビルの端にモービルを止めた。本来は非常時の脱出用に各階に作られたエアカー・ポートが通常の出入り口に転用されて久しい。男はBOARDと書かれた鋼鉄のドアをそっと開けた。
一週間後には地球に残っている最後の人間達が旅立つ。月のコロニーに向かって‥‥
リーブエネルギーを中心とする新エネルギーによって、低温対策は可能だった。だが、当然のことながら太陽光が無ければ植物は生きられない。ひいては動物たちも‥‥。人工太陽の温室ももちろんあるが、いくら大規模なものを作った所で追いつかない。太陽の偉業は決して人間が補えるようなものではなかったのだ。
とうとう人類は地球を離れることを決意した。22世紀初頭からTPCを中心に進められてきたネオ・フロンティア計画のおかげで、オメガ到来の時は既に、地球の人口の3割が生活基盤を宇宙に移しており、8割の人間が宇宙旅行の経験を持っていた。ゼロ・ドライブ航法があれば何百光年先の惑星へも数週間で到達できた。
最後の希望。それが全ての始まりになるように、オペレーション・アルファと名付けられた。
無人になった地球のオメガ層を焼き払い、その後で放射能を除去するのだ。いつか再び地球に戻る日を信じて。
地球の4箇所から一週間後に飛び立つ4台のスペース・シャトルによってアルファは実行される。オメガ層の中に同じタイミングで圧縮光子爆弾を投下し爆発させ、連鎖反応によってオメガ層を焼却するのだ。4台のスペースシャトルに乗り込んだ科学者と技術者とパイロット達は、そのまま月のコロニーに滞在し、地球の様子を観測する任に付く。
そして日本でオペレーション・アルファを担うのがTPC極東支部とそしてこの世界で最も偉大な研究所BOARD――生命生存基盤技術研究所―――だった。
男は建物に入ると黒いケースを置いてコートを脱いだ。背は低いが、がっしりした体つき。ひょろ高くて細身な現代人の中では珍しい体格だった。指紋認証のあと内側の防寒用の重い扉を開けて中に入った。
「タチバナさん!」
もこもことした青いセーターを着込んだ青年が長い廊下を駆け寄ってくる。男は自分を律儀にファミリーネームで呼ぶ青年の様子に苦笑した。
「廊下は走るな。また怒られるぞ、ヒカル」
「もういいじゃないですか。この場所、走り納めなんだし」
くるくると好奇心旺盛な丸い黒い瞳。青年の名はヒカル・カミジョウ。本当は学生なのだが実質的には見習い研究員に等しい。BOARDの最高責任者であるシンゴ・カミジョウの孫にあたる。
「またモービルで行きましたね。モニターで見ちゃった。タチバナさんこそ、お祖父ちゃんに怒られたって知りませんからね」
大人ぶったヒカルの物言いに、今度は男のほうが言い訳がましく応える。
「いいじゃないか。エアカーは好きじゃないんだ」
「危ないですよ。あんな古いきか‥‥‥‥わ!」
いきなり背中をどんと叩かれたヒカルが振り返る。少女がぷうっとふくれて見せた。
「もう、ヒカルったらいきなり飛び出してっちゃうことないでしょ?」
「うるさいな、レイナは。タチバナさんとすぐ戻るつもりだったんだからいいじゃん」
「そういう問題じゃないの。だからあなたは子供だって言うのよ。ね、ハジメさん?」
レイナがいきなり男――ハジメ・タチバナ――にそう振った。じゃれ合う恋人同士の様子を微笑んで見ていたハジメは、慌てて少女に賛同の頷きを返した。
レイナはヒカルの2歳下でやはり学生だ。彼女の親もオペレーション・アルファに従事していて、最後のシャトルで地球を離れることになっていた。ヒカルとレイナはこのシャトルで一番若い乗組員になる。
レイナはファミリーネームを持たない。DNAによるID化が一般的になってから、名前は本人が自らを演出する指標の一法になり、多くの人は名字というものを持たなくなっていた。だからレイナにしてみれば名前で呼び合うのはごく自然なことだった。
それでも自らの祖先に思いを持つ者達は、祖先の名を語り継ぐためにファミリーネームを使い続ける。ヒカルは親の言うままに素直にカミジョウと名乗っていたし、ハジメにはタチバナの名を決して捨てられぬ理由があった。
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