★ノアの切り札 (3/12)
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山の中腹に作られた小さいカーポートにエアカーが着地した。降りてきたのはハジメ・タチバナただ一人。急な山肌に貼り付くように石作りの建物がある。あたりは氷で覆われているが屋根の雪は8年前に完全に除去したからきれいなものだ。大気にはもう雪になるような水分は残っていない。この小さな山は丸ごとハジメの私有地になっているし、こんなやっかいな場所にやってくる人間は誰もいない。

3日ぶりだったので玄関のすぐ脇に小さな温室を見に行った。今では珍しいオールド・パンジーの鉢が10数個、太陽灯を浴びてきれいに咲いている。留守中にトラブルは無かったようだ。
機材の並んだ研究室を通り抜けて自室に入り、机の上の2枚の写真にいつも通り挨拶する。1枚は5人の男女。1枚は母親と並んだ少女。平面写真を飾るなど廃れ果てた習慣だが、立体カメラが普及する何年も前に逝ってしまった人達なので仕方がない。

部屋には窓が無い。研究室の途中から先は地面を掘って山中に造られた形になっている。
古びた壁には透明でぶ厚い保護フィルムに封じ込められた年代もののジグソーパズルがいくつか飾られていた。どれもピース数の少ない小さなものばかり。モチーフは野草の慎ましやかな花が多い。橘朔也の唯一の趣味で、彼が逝った時、戸籍上の"息子"になっていたハジメがそれを貰い受けた。

橘朔也にここに呼ばれて、いきなり「お前を俺の息子にしたい」と言われた時は、さしもの相川始も驚いたものだ。かなり呆けた顔になっていたらしく、脇にいた睦月が年甲斐もなく笑い転げていたのを覚えている。だが橘は至極真面目に続けた。
「この施設一式、お前に受け継がせるにはそれが一番簡単だ。お前にはこれを受ける義務がある」
当時の橘が持っていた権力と財力なら、こんな施設を作ることも、戸籍の無い人間を自分の籍に入れることも可能だった。


なぜ天王寺がBOARDを橘に任せるという遺言を残していたかは永遠に謎だ。神となることを確信していた天王寺の皮肉だったのか、それともあの男の内にも良心はあったのか、はたまた全ては所長の烏丸啓の策略で、そんな遺言など無かったのか。
経緯はどうあれ橘は烏丸を後見にBOARDを真に人類のための研究施設として立て直した。そして潤沢な隠し資金を流用し、天王寺の別荘があったこの場所にこの施設を作った。
本質的には繊細な心根の橘が、結果としてどれだけの心労を抱え込んだかはわからない。睦月も始も彼の力になろうと最大の努力はしたが、橘は自分を追い詰めるように生き急いだ。彼が休むのは短い睡眠時間と小さなジグソーパズルを組む時だけのように見えた。

ハジメはパズルの1枚に近づくと、右の5本の指先を丁寧に決められた箇所に置いた。壁の一角にある薄い飾り棚がスライドし、その奥にトンネルが出現する。わずかな照明を頼りに天井の低いトンネルを進むと、壁も天井も金属で覆われた小さな空間に出た。何もないつるつるの壁面に手を触れると、壁の一角に切り込みが入り、小さな隙間が空いた。

隙間から真珠色の光が漏れ出てくる。大きな金属の塊を人間技とは思えない力で外し取ると、その内部には発光する大きな水晶のような石が保管されていた。半透明の結晶の中に、不思議な模様の描かれたカードが、幾枚も浮遊している。

相川始が橘から託されて、守り続けてきたもの。

封印されたアンデッドと、それらに関する全ての研究データだった。


――Act.2 誓いし友へ――


枠のついた薄いディスプレイをそっとなぞると、懐かしい写真が次々に溢れだしてくる。殆どが平面写真だが中には動画もあって、声を聞けば350年などあっという間に遡れる。そっけない寝台に座り込んだ男は、ひたすらにメモリーブックを見ていた。男の長い人生の中でほんの僅かの、だが一番大切な思い出。これが見納めだ。

もうすぐ地球に残っていた最後の人々がシャトルで旅立つ。生き残っていた動物たちの保護と移動は数ヶ月も前に終わっている。
あと20時間もすれば、地球から生命が消える。2体のジョーカーを残して‥‥。


輝くディスプレイに映っているのは可愛らしい少女とその母親の写真だ。ログハウスの前でハンギングやプランターに植え込まれた春の花々に囲まれて幸せそうに笑っている。
「天音ちゃん」
相川始の口が自然にほころぶ。ただ一心を自分を慕ってくれた少女。男の在り方を変容させた二つ目の啓示だ。
机の上に、温室から持ってきた黄色いオールドパンジーが一鉢ある。写真の中の花と殆ど同じ。少女――栗原天音が一番好きだと言った花。彼女の死後園芸品種がどんどん改変されてしまうことを知って、慌てて育て継いできたものだ。


自分は人間ではない。
この母娘にそう告げたのは少女が17歳になった時だった。
けっして人として生きられない化物だ。天音の父が死んだのは、自分と他のアンデッドとの闘いに巻き込まれたからだ‥‥。

美しく成長していく少女。変わらぬ自分。向けられる想いが何なのかそろそろ判ってきた頃だ。真実を言わぬ訳にいかなかった。

遥香も天音も自分を拒絶しなかった。それでもいいと言ってくれた。だがもうそれ以上、一緒には居られなかった。人がよく言う「泣きたい」ということがどんなことなのか、この世に生じて初めて知った。

この懐かしい家を出たあともずっと二人のことを見守ってきた。少女に恋人ができ、結婚し、可愛い男の子と女の子が生まれた。遥香が逝った時は弔いの儀式に付き添うことができた。そして少女の連れ合いが亡くなり、少女自身が病に伏して‥‥。


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