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第13話 暁 光
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数十秒の暖気のあとにギアを入れ、ほとんどアクセルを踏み込まずゆるゆると車が動き出した。森の小路の前は他の車など走っていないし、こんな低速でも迷惑にはならない。 「白衣姿も格好いいけど、あんな有望さん見てるとすっごく可愛い奥さんになりそうだよね」 ちょっと自虐的だねと思いつつ、わざとそんな話を振ってみたのはどうしてだろう。有望にあれだけ思われながら、意地のように「ただの幼馴染みだ」と言い続ける赤星が、どこかで癪に障っていたのかも知れない。 「そうかなぁ? 毎日小言ばっか言われそうだけどなぁ‥‥」 その台詞にはあまりに実感がこもっていて、洵は思わず苦笑してしまった。 「そりゃ、相手が竜太さんだから、そうなんじゃないの?」 「お前ってさあ、有望のこと、なんか勘違いしてねえか?」 「そんなことないよ。聡明で、優しくて、何よりいつも信念のままに歩いてく。違ってる?」 赤星はちょっと驚いた顔でちらりと洵を見た。だがすぐに茶目っ気のある笑顔を浮かべる。 「違っちゃねえけど、モレがいっぱいあるぞ。有望はな、ムチャで、気が強くて、思いこむとそれっきゃ見えなくなっちまって、そんでもってとんでもなくガンコで‥‥‥‥」 「‥‥それ、なんかすごい拡大解釈入ってない?」 「そんなことねえって。俺、あいつんこと、6歳の時から知ってんだぜ?」 赤星の表情が得意げなそれから、ふと寂しげなものに変わり、小さな声でつぶやいた。 「でも、あの頃はよかったな‥‥。単純に‥‥ただ、あいつのための俺でいられた頃は‥‥‥」 洵が、大きく目を見開いた。赤星のこんな言葉を聞いたのは初めてだった。 夜になってめっきり冷え込んで、元旦の夜はさすがに車の通りも少ない。もちろん殆どの店が閉まっているから、ずいぶん遅い時間のようだ。赤星は大通りに出ても思いのほか静かに車を走らせている。 その横顔は口元にだけ笑みを貼り付けて、しかしその黒い瞳は、ただ、茫と続く"前"を見ていた。 「ごめん、竜太さん‥‥」我知らず、洵の口から、言葉が漏れた。 「なんだあ? ぜんぜん謝るとこじゃねーぞ?」まったくいつも通りの陽気な声で赤星が応えた。 「あはは‥‥そうか‥‥。そうだよね‥‥」思わず笑ってごまかした。 竜太さんも有望さんと同じなんだ。‥‥ただ‥‥一途に、相手を見つめて‥‥。 でも、自分の気持ちにも有望さんの気持ちにも、今は、応えることができないだけなんだね。 初めて会った時からあまりに変わらないから、この人の背負ったものをつい見失ってしまう‥‥。 「でもさ、お前も、大変だね。正月二日から仕事なんて‥‥」洵の気持ちも知らず、のんきな口調で赤星が言った。 「若い勤務医の正月なんてこんなもんだよ。それに4日のオペの術式、覚えちゃいたいし」 「そんなもん、見りゃすぐ覚えられんだろ?」 「うん。でもこんどの執刀医がすごい腕の先生でね。術式を完璧にマスターして立ち合った方が絶対、勉強になるから」 赤星は微笑んだ。洵もまた、仕事に対しては貪欲だ。決して強くない体で、外科医という仕事はきつかろうと思う。2、3時間〜8時間以上にも及ぶ緊張の連続に、この華奢な身体が耐えていることのほうが不思議になる。加えてOZのことでも負担をかけるのは、心苦しかったのだが‥‥。 「お前さ、どうしてよりによって外科医、選んだわけ? 循環器科とか内科のほうが、体力的にラクじゃなかったのか?」 「あ、ひどいなぁ。僕のこと、またバカにしてるでしょ」 「バカになんかしてねーって。最終的には、どんなことだって、気合いの勝負なんだよ。お前は確かに体力的には劣ってる。だけど、それでも外科医が務まってるってことは、すげえ気力があるんだろうな? だからそのこだわりはなぜかなって思っただけさ」 洵がにこりと笑った。その栗色の目が輝きを増す。 「ね、竜太さん、今、手術の時、その術式の可不可を最終的に判断するのは誰だと思う?」 「そりゃ執刀する先生だろ?」 「違う」 「え? じ、じゃあ、その患者担当してる別の内科の先生とか?」 「それも違う。実はね、麻酔科医なんだよ」 「ええ?」 「今の医療はあまりに細分化されて、技術の進歩が激しすぎるんだ。外科医は新しい術式や人工器官やそういったことに追われてる。内科や循環器科はクランケの化学的生理学的な判断はできても、物理的なオペがどういう影響を与えるかはわからない。で、結局、麻酔科医が最終的に、その術式に、GO、NO−GOを出すんだ。まあもちろん麻酔そのものが、人の生と死の境界をあやつる技術だってこともあるんだけどね」 「ふわ‥‥。そんなこと、考えたこともなかった‥‥」 「だけど麻酔科医は患者の担当医になるわけじゃない。手術の直前にちょっと会うだけなんだ」 「そうかぁ‥‥。なんか一般人が持ってるイメージと違うんだな」 「そう‥‥僕はその普通のイメージにこだわりたいんだよ。守備範囲が広くて、ひとりの患者を総合的に看られる医者になりたいんだ。過疎地で近くに大きな病院がない。そんな所でも有る程度のことができる、そんな医者にね。幸い僕は特殊な記憶力を持ってる。もちろん内科だって経験が大事なのはわかってるけど、記憶で済む部分もそれなりにある。でもオペばっかりは本当に経験が全てだからね。だからまずは外科医になろうと思ったんだ」 「お前‥‥すっげーこと考えてたんだな‥‥」 信号待ちの間に洵の紅潮した頬を見つめて、赤星は舌を巻いていた。その線の細い外見、柔らかい物言い‥‥。赤星にとって洵はあまりに脆い感じのある存在で、ついずっと年下のように考えてしまいがちだった。その洵がこんなに熱い想いを秘めていた‥‥。赤星はひどく感銘を受けていた。 車は市街地を抜けて小さな山を迂回する国道を走っていく。西都大学の医学部とその付属病院はもうすぐだ。 「あ、竜太さん。ちょっと寄り道してかない?」 「へ?」 「ここ、ちょっとした公園と見晴台があってね、夜景がきれいなんだぁ」 「いいけど、物好きだね、お前も」 「なんか大演説したら、頭冷やしたくなっちゃって‥‥」 照れくさそうに行った洵に、思わず吹き出した赤星が、それでも指示通りに車を乗り入れた。 「おー! けっこう段数有るじゃん。トレーニングに使えそうだなっ」 見晴台までの階段を見やって赤星がはしゃいだ声を上げた。普段だったら医学部の学生のいいデートコースになるのだろうが、さすがに人気がない。 ダッフルコートのフードもかぶって、洵がとんとんと階段を登り始める。1段の奥行きが広めなので大股に歩いていく感じだ。赤星も革ジャンのポケットに手をつっこんで洵の隣を歩き始めた。 「竜太さんと、こんな話したの、初めてだったね」 「ああ。俺、すっげー感動しちまったよ、お前の話! でも、お前ならできるよ、きっと!」 「だと、いいけどねー」 「そんな夢あるのに、悪いな、ホント。こっちのことで煩わせちまって‥‥」 「そうでもないよ。ほら、言ったじゃない、一人でなんとかできる医者が目標って。で、ベース行くと、僕一人なんだなぁ! いい練習だって!!」 「あっちゃ‥‥。じゃ、俺たち、実験台?」 「っていうか、竜太さんや黒羽さんなら、何やっても死にそーにないじゃない?」 「実験なら黒羽だけにしろよな」赤星は笑い転げてそう言った。 友や兄弟の新しい面を知った時の、陶酔した雰囲気が、二人の青年を包んでいた。 複数のガス灯に照らし出され、足元から放射状に舞い落ちるたくさんの影が、それを煽る。 冷え切った空に、欠け始めた十七齢の月が冴えていた。 「もうひとつ‥‥あるんだ‥‥」少し息を切らしながら洵が言う。 「守備範囲の広い医者になる理由?」 「そうそう‥‥」大きく喘ぐように深呼吸して続ける。 「博士‥‥。博士に何があっても‥‥看てあげたいんだ。僕が‥‥僕の手で‥‥」 「洵‥‥」 洵の栗色の瞳を、赤星の黒曜石の瞳が包むように見つめた。 この傷つきやすい優しい青年の生い立ちを赤星は知っている。 そして洵もまた、眼前の男が自分の素性を知る数少ない人間の一人であることを知っていた。 本名、孫 洵 スタンレー。 アメリカ人の父と中国人の母を持つ日本生まれの混血児。 父は洵の生まれる前に殺害された。手を下したのはその妻。妊娠32週だった彼女は逮捕後すぐに切迫早産となり、警察病院の特別棟で1800gの未熟児を出産した。かろうじて、孫 洵という名前だけは残したものの、彼女は、自分の息子をその手に抱くこともなく逝った。 被害者の親族となった父方の実家も、加害者の親族となった母方の実家も、洵を引き取ることを拒否し、彼はそのまま孤児院で育った。 洵の特殊な記憶力を目当てに、幾人か里親の申し出をした者もいたが、少年の首が縦に振られることはなかった。そして、彼が16歳になり、少々変わった天才科学者が無垢な心でこの少年に手をさしのべた。その時、洵は初めて素直にその手を取ったのだった。 「‥‥はーっ、もう‥‥だめぇ! やっぱ今日‥‥少し飲み過ぎた‥‥みたい‥‥」 平地に来たところで洵が膝に手をついて、声を上げた。右手で左胸のあたりを掴むようにして上半身を起こし、赤星を見上げて苦笑した。まだ行程の三分の一も来ていない。 「しゃべりながらだったからな」 洵の、胸を押さえる動作に少しひっかかるものを感じながら、赤星は息も乱さずに応えた。 「上まで行った方が‥‥夜景‥‥綺麗なのに‥‥なぁ‥‥!」 「夜景ねえ‥‥」 と、赤星は着ていた革ジャンをいきなり脱ぐとそれをぼんと洵に着せかけた。目を丸くする洵の前にラガーシャツの背中をむけて片膝をつく。 「な、なに?」 「ほれ、背負ってってやる」 「や、やだよ! ‥‥恥ずかしいじゃない!」 「だって、誰もいないぜ? 今日、運動不足だったし、重し代わりでちょうどいいや」 「重し‥‥。よーし!」ちょっとずっこけかかった洵はやけくそで赤星の背中におぶさった。 「進め! レッドスター号!」 「おい、馬じゃねーって!」 背中の人間などいないかのように、赤星はリズミカルに階段を登っていく。 「おまえって、ほんとに軽いよな」 「今日日、僕ぐらいの人、沢山いるよ」 「そりゃ、そうか」 「アハハ‥‥! 竜太さんの声がびりびり伝わってきて面白ーい!」 洵が子供のような笑い声を立てる。 「そこまでガキに戻ってどーすんだよー!」 妙に弾んだ洵を背負って、さっきから胸のあたりでたゆっている言葉があった。いや、本当は何年も前から聞きたかった言葉なのかもしれなかった。 「‥‥なあ、洵‥‥。ひとつ聞いていいか?」 「なに?」 「お前、家でも‥‥、二人のときも、博士のこと、博士って呼んでんのか?」 「え‥‥?」 「いや‥‥その‥‥。親父とかお父さんとか、言ってあげてないのか?」 「‥‥‥‥」 無言が返ってきた。かわりに自分の胸の前で交差された細い腕に少し力が入るのがわかった。 「‥‥‥‥怖いんだよね‥‥」洵がぽつりと言った。 「怖い‥‥?」 「はは‥‥! ネコの子みたいに、ただ孤児院の前に捨てられてましたってのがよかったなー!」 「洵‥‥?」 「なまじ知ってるから、僕にとっての"お父さん"は"お母さん"に殺された人なんだって思っちゃうじゃない? "お母さん"は永久に人殺しで、"お父さん"は‥‥!」 「おい、洵‥‥!」 赤星の声音がちょっと強い調子になったのにもかまわず、洵は話し続ける。 「知ってるよ。知ってるんだ、博士がどれだけお父さんって呼んでほしいか‥‥! でもダメ。"お父さん"って言ったら"お母さん"もでてきちゃう。僕は‥‥戻りたくない‥‥」 赤星は、上半身をかがめると左手を離し、ちょうど自分の左肩の上にある栗色の柔らかい髪をぎゅっと自分のほうに寄せるように撫でた。洵の身体を揺すり上げるとまた歩き始める。 「ごめん‥‥。悪いこと、言っちまったな‥‥」 「ううん‥‥」 「確かに、呼び方なんてどーだっていいことなんだもんな‥‥。お前が言う"博士"って言葉は、俺たちが博士と呼ぶのとは、ぜんぜん違った意味持ってる。それならそれで、いいんだよな‥‥」 「竜太さん‥‥」 「ただ‥‥これだけは言わせてくれよ‥‥‥。だからこそ‥‥。今、お前がここに居て、博士がお前のこと何よりも大事にしてて‥‥。俺や親父やみんながお前のこと大好きで‥‥。そういうことは、呼び方なんかで壊れちまうもんじゃねえと、俺は思ってる‥‥」 きしきしと赤星のスニーカーの底が石段を捉えていく音だけが響く。 竜太の肩のあたりのシャツの生地をぎゅっと掴んでいた洵の手がふっとゆるんだ。 「ねえ、竜太さん‥‥。僕もひとつ聞いていいかな?」 「なんだ?」 「10年前。まだ高校生の時、東京駅で具合の悪くなってた人を助けたこと、ある‥‥?」 「はあっ? なんだよ、やぶからぼうに!? えーと、どれの話だ?」 「12月だよ。パーカーだけ着てうずくまってた。背負って医務室に連れてった‥‥」 「ああ、あるある! 覚えてるぜ! 練習試合の帰りかなんかで東京駅通った時だ。確か中学生ぐらいのやつだったかな? すっげー熱でもうろうとしてて。医務室に行ったけど、目は覚まさないわ、連絡先もわかんないわ‥‥。ただ、駅員さんがいい人だったんだよ。翌日電話したら、ちゃんと家に送ったって言ってた。で? それがなに?」 「やっぱ‥‥竜太さんだったんだ‥‥」 「は? ぜんぜん話が見えねーぞ?」 「それ‥‥僕だったんだよ‥‥」 「げ。マジ?」 「ちょっと‥‥博士の親戚の人と色々あって、思わず飛び出しちゃって‥‥」 「ひえ、すっげえ奇遇‥‥。しっかし気づかねえもんだな。ま、俺も忘れっぽいタチだからな」 「改めて、お礼言わなきゃね」 「もうそんな、百年も前の話、時効だ、時効! でもって、ほれ、頂上!」 赤星がしゃがんで洵を下ろすと、そのままたっと手すりに駆け寄り、伸びをして夜景を見やる。 とんと足を踏み換え、身体をほぐすように、目にもとまらない速さで左右の拳を繰り出した。 「ホント! けっこう綺麗じゃん」赤星が洵を振り返って笑った。 「でしょぉ?」ダッフルコートの上に赤いジャンパーをかぶせられた奇妙な出で立ちで、洵は夜景と赤星の後ろ姿を見ていた。あの時も、今と同じように、大きな背中だった。 (呼び方なんかで壊れちまうもんじゃねえと、俺は思ってる‥‥) 胸のあたりに、男の背中から伝わってきた力強い響きが残っているような気がした。 2001/12/31
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